氷帝カンタータ





夏空セレナーデ(4)





「みんなっ、今日も一日頑張ってね!」





朝から先輩の様子がおかしい。
朝食の時から既におかしかった。
まずは服装だ。いつも俺たちの前では「健全な青少年達を誘惑しちゃわないように☆」
というなんとも見当違いな理由で学校指定のジャージしか着ない先輩が
白いTシャツに、丈の短いショートパンツを着用している。
なるほど、忍足さんぐらいなら誘惑できるかもしれない格好だけど、
とにかくギャップがありすぎて違和感しか感じない。


そして、髪の毛も。いつもは山から飛び出して来た山姥のようなモサっとしたポニーテールなのに
今日は長い髪の毛を下ろして軽くウェーブがかったなんとも女子らしい髪型だった。
暑いのに、あんなスタイルで大丈夫なんだろうか。
いつものポニーテールの方がいいと思うけど、鳳をはじめ何人かのメンバーは明らかに先輩を女として意識していたようだった。
うっすら化粧もしているようで、どこかいつもより大人びた、女性のような(いつもは男性のよう)雰囲気を醸し出している。


格好だけならまだしも、人格までも変わってしまったようで、
朝からずっと笑顔でキラキラしたオーラを放っている。
情けないことだが先輩の笑顔ほど怖いものはないので、正直気味が悪い。


極めつけは食事だ。
いつもの先輩なら朝食バイキングなんてあろうものなら、狂ったように食べ続け、
バイキングなのに人のお皿の食べ物まで盗む勢いのはずなのに
今日は小さなパン一つと、スクランブルエッグにフルーツヨーグルトしか食べていない。
あり得ない。こんな量の食事ではいつもの先輩なら30分ももたず倒れてしまう。

いつも俺に会うと「ぴよちゃんさま、なんか食べれるもの持ってない?」と物乞いをしてくる先輩が、だ。

一度だけ、先輩の物乞いにいい加減うんざりして「よもぎ」を2、3枚あげてみたときは
「ぴよちゃんさまの育てたよもぎ貰えるなんて幸せ!」
とか言いながら俺がそこらへんの道端で拾って来たよもぎを食べようとしてた。
さすがに途中で止めたけど、半分ぐらいは食っていた。
そんな食い意地のはった先輩が、こんな少食だなんて、あり得ない。


俺以外の人間も、すぐに先輩の異変に気づいたようだ。
芥川さんや鳳が近づいて来ても抱きしめないし、
向日さんに対してもいつもより余所余所しい、控えめな会話しかしない。
忍足さんが「今日の服ええやん」と、セクハラまがいの発言をしても、怒鳴らない。
おかしい、絶対怒鳴り散らしながら回し蹴りの一つでもかまされるはずなのに。
それどころか少し頬を赤らめて恥ずかしそうにうつむくだけだった。
(これには本当、背筋が凍る思いだった。)

それらの様子を見ていた跡部さんは、イライラが頂点に達したのか先輩に対して腕ひしぎ十字形目をきめていた。
先輩に対してはいつも手加減なしで容赦なく技をかける跡部さん。
その技を、信じ難いことだが女子であるはずの先輩はいつも耐えていた。むしろその技を返すことさえあった。

が、今朝の新・先輩はというと声こそあげないものの目からポロポロと涙を流したのだ。
これには、あの跡部さんも面喰らったのかすぐに先輩から離れて
なんと、「ごめん」と謝ったのだ。(あの跡部さんが、謝るところを初めて見た。)



そして今に至る。
見たことのない笑顔を振りまきながらレギュラー陣をテニスコートへと送り出す先輩。
ドリンク準備のために建物内へと入った先輩を全員が呆然とした顔で見送る。
正直なところ今のような笑顔を毎日繰り出されると、
元・先輩が言うように何人かは誘惑されてしまうかもしれない。
それだけは絶対に避けなければ。

そしてすぐ跡部さんの号令で緊急ミーティングが開かれた。


「おい…なんだ、アレは。」

「なんか…ええなぁ、女子がおるって。」

「侑士、なんでそんな落ち着いてんだよ!女子って…あれ元はだぞ?!」

ちゃんはずっと女子だCー!俺いつものちゃんの方がいい!」

「なんか変なもんでも食ったんじゃねぇの?」

「宍戸さんも先輩も、皆同じものしか食べてませんよ。合宿中なんですし。」




「霊が乗り移ってるんじゃないですか。」



自分でも馬鹿らしくなることを言ってしまった、と反省していると
向日さんが急に眼を見開いて近寄ってきた。



「…日吉、よく気づいたな。絶対それだよ!」

「え…いや、そんなはずないでしょう。」


自分で言っておいてなんだが、この人は他人を信じすぎる節がある。
だが、俺の言葉には耳もくれず怯えた目で他の先輩たちに訴えはじめた。


「いや、だってそれしか考えらんねぇじゃん。どう考えてもあれはじゃねぇよ!」

「確かに…前のと今のやったらゴミくずと金・プラチナぐらいの差はあるわな。

「えー!じゃあちゃん霊にとりつかれてるの?どうすれば治るの?」

「知るか。一発殴れば治るんじゃねぇか。」

「跡部それでさっき泣かれてたじゃん。」

「……めんどくせぇ。」


何故か先輩は霊にとりつかれているという方向で話が進んでいるが
否定するのも面倒くさいしこのままにしておこうと思う。


ただ、元の先輩に戻す方法までは議論が進まなかったみたいで
跡部さんは不機嫌そうに練習再開を言い渡した。


そこへ先輩が戻ってきて「日吉君、頑張ってね!ドリンク用意してるからね!」
等とまるで女子のような言葉をなげかけてきたから、つい言い返してしまった。


「……先輩、いつまでその演技続けるつもりですか?」

「…え?日吉君、何言ってるの?」

「その日吉君っていうの、やめてもらえませんか。いつもそんな呼び方じゃないでしょう。」

「………。」


どうもいつもの呼び方じゃないのが気に食わない。
何が気に食わないのか自分でもわからないが、あのふざけた呼び方の方がまだマシだ。


「…日吉君、私のこと嫌い?」



目をうるませながら上目づかいで問いかけてくる先輩。

…そうきたか。



「日吉、何してんだよ。」

「あーあ、泣いてるやん。」

「……すいません。」



宍戸さんに忍足さんはもう完全に新・先輩に適応しているようだ。
女子の力というのはこんなにも強いのかと今、思い知った。

先輩と俺が話している時、いつもなら誰も気になどとめない。
むしろ「またが日吉に絡んでるのか」と皆から憐みの目線を感じるぐらいだ。

しかし、新・先輩に対しての対応はどうだ。
普通に話してるだけでも、先輩が涙を見せるだけで俺が悪者扱い。
女子の力を手に入れた先輩は今までより更に性質が悪い。


本当に先輩は霊にとりつかれてるんじゃないか。
そう思わせるほどの激変ぶりが、先輩にはあった。




























「お疲れ様!はい、タオル!」


女子のような笑顔でふかふかのタオルを配る先輩を見て
「天使みたい…」と鳳が呟いていたのを俺は聞き逃さなかった。

こいつは完全に新・先輩に騙されている。

俺はやはりまだ霊がとりついた等という非現実的なことは認められない。
先輩が何らかの理由で演技をしている、というのが妥当な考えだろう。

しかし、演技にしては隙がなさすぎる。
頭のてっぺんからつま先まで全て「女子」を見事に演じきっている。


、ありがとうなー。」

「うん!忍足君もお疲れ様!早くお風呂入って今日はゆっくり寝ないとね!」

「そやな、一緒に寝よか。」


まずい、先輩の拳が忍足さんのメガネを貫いてしまう、
全員がそう思った瞬間だったが新・先輩は手をあげることもなく俯いている。


「…忍足君、皆いるのに恥ずかしいよ…。」


……まいった。

いくら演技でも、あの先輩がここまで女子、それも可愛い女子のフリをできるとは思っていなかった。
現にからかった張本人の忍足先輩でさえじっと固まってしまっている。

こちらが恥ずかしくなるほどの「女子」を見せつける先輩を見て、
レギュラー陣全員が明らかに先輩に対して「女子」を感じていた。




























「なぁ、もうあのままでいいんじゃね?」

「岳人もそう思ってたんか。もうずっとあの可愛いでおってほしいな。」

「……やりにくて仕方ねぇよ。」

「そんなん言うて、宍戸さっきさりげなくの荷物持ってあげてたやん。いつもそんなんせえへんのに。」

「ばっ、あっ、あれは別にちげぇよ!」

「あー、宍戸抜け駆けはダメだC〜!ちゃんは俺のものだよ!」

「お…俺も、今日は、先輩のこと可愛いな…って思っちゃいました。」

「だめだめだめー!ちゃんは俺のなの!」


男子風呂で、それも氷帝テニス部の中でまさか先輩について
恋バナのようなものをするとは思ってもみなかった。


皆どこか興奮した様子で先輩について語っている。
もうほとんどの人は元・先輩の存在、そして今までの悪行を忘れ去っていて、
新・先輩に夢中な様子だ。


「なぁなぁ、跡部ものこと可愛いって思った?」

「あ〜ん?」

「だから女子バージョンののことだよ!」

「………あいつが可愛いわけねぇだろ。気持ち悪いこと言うな。」

「跡部、俺の目はごまかされへんで。さっき完全にに見とれとったやん。」

「誰があんな野生の熊みたいな女に見とれるんだよ。」

そりゃ男子バージョンのはそうだけどさ。今はほら、なんか結構可愛いじゃん?」

「……何洗脳されてんだよ、お前達。」

「ほな、跡部は元のの方が好きなわけやな。」

「沈められたいか、忍足。」





ガラッ





突然開くはずのない男子風呂の扉が開き、入ってきたのは…


「…跡部君ひどいよ。」


バスタオル一枚を体に巻き付けただけの先輩だった。
先ほどの会話を聞いていたのか、少し涙目で全員が集合する湯船に近づいてくる。
これには、さすがに全員が慌てた。


「ちょ…おい!なんで入ってきてんだよ!」


向日さんを筆頭に全員が反射的に先輩から目をそむける。
いつもの先輩ならまだしも、今日の先輩の、その、バスタオル一枚の姿を見るのは気が引ける。


「ねぇ、跡部君は私のこと女の子と思ってくれないの?」

「…何、人の話盗み聞きしてんだよ。」

「だって……跡部君がひどいこと言ってるの聞こえたんだもん。」


俺達は今、跡部さんと先輩の方を向いてないが
きっと先輩は俺にも使ったあの大技「涙目+上目使い」を駆使して
跡部さんに迫っているのだろう。どんな目的かはわからないが、先輩が普通の状態じゃないのは確かだ。


「跡部君、私のこと……女の子と思ってくれてる?」

「………。」

「…跡部君に可愛いって言ってほしくて頑張ったのに…。」


やはり俺達はまだ先輩に目を向けていないが、
先輩のすすり泣く声が聞こえてきた。

…半裸の女性にあそこまで言われて耐えている跡部さんもスゴイと思えてきた。



「………まぁ、可愛いんじゃねぇの。

「…え?」

「だから、可愛いって言ってやってんだよ。わかったら早くどっかいけ。」


言った、跡部先輩がついにあの…あの先輩に「可愛い」と…。



「あ…跡部君……!あの…あのね……






























































ぶわぁぁああああかっ!!!!」










反射的に全員が後ろを振り向いた。
聞き間違いじゃなければ、この声は








元・先輩だ。







「………てめぇ。」

「あはははははっはっは!ちょ…跡部君もう1回ー!私のことがなんだって?ん?」

「な…、え、…?」

「あー!宍戸君、さっきは荷物持ってくれてありがと!嬉しかったぞ☆」


バチコーンっとウインクをする先輩に、先ほどの女子力は微塵も残されていなかった。
ゲラゲラと笑いながら水面をばしゃばしゃと叩く様を見ていると
何故だか無性に腹が立つ。やはり演技だった、見破れずにまんまと…可愛いなどと思ってしまった自分が悔しい。


その思いは全員同じようで、もはや先輩のことを
「女子」として見ている者は1人もいなかったように思う。


「あー、おもしろい。ちょーっと私が本気だしたらイチコロなんだから、あんた達!」

ちゃーん!やっぱりちゃんだった!戻ってくれてよかったー!」

「ジロちゃん!ジロちゃんはやっぱり本当の私を愛してくれるのね!」

「愛じゃないよ、ライクだよ。」

「わ…わかってる、改めて否定されると恥ずかしいからスルーしてよそこは…。」


すっかりいつもの雰囲気に戻った先輩に何故かホっとしている自分もいる。
少しでも怒鳴ろうものならすぐ泣いてしまいそうな、あんな女子らしい先輩、相手をできる自信がない。

しかし、新・先輩支持派の先輩たちは納得がいかないようだ。


、頼むからずっと演技し続けといてくれ。」

「いやよ、あんなムズがゆい芝居!あんな女子いるわけないでしょ、現実を見なさい。

先輩…あんなに可愛かったのに…。」

「え…ちょた、可愛かった、のにって?今は?今は可愛くないの?」

「…はい…。」

「はい…じゃないでしょ!」








。」

「なぁに、あ・と・べ・くん☆……ブフーッ、あんた私のこと可愛いって思ってたんだねー。」

「………。」

「いや、やっぱそうじゃないかとは思ってたのよね。好きな子ほどいじめたくなるってやつ?」

「……………。」

可愛いんじゃねぇの(キリッ)だって、ブフッ!あー、面白い、動画とっとけばよかったかなぁ。」

「…、その辺にしとかないと…。」



「もう遅い。」








怒り心頭の跡部さんが先輩を持ち上げ

露天風呂に投げ捨てたのを皮切りに、

他の先輩達も這い上がってくる先輩に対して罵声を浴びせながら

何度も風呂の中に先輩の体を放り投げていた。

忍足さんに至っては「なにを生意気に水着なんかきとんねん!」と、別のことに関して怒っていたようだった。


先輩は文句を言いながら、向日さんを投げ飛ばしたり

長太郎の腰のタオルをとろうと必死になって跡部さんに殴られたりしていたけど




先輩も他の先輩も全員がどこか楽しそうだったのは

俺の勘違いではないはずだ。






不思議なことに、可愛くて女子らしい先輩よりも




やっぱり皆、この男みたいな先輩と居るのが一番落ち着くようだ。











俺も含めて。